頭のいい人。
そういう人は、大人になっても勉強をし続けて、さらに能力を伸ばしていきます。
僕もそうでありながら、なかなかそういう大人になれない。いや、なれていない。
これはなぜだろう?って考えていました。
それが、最近英会話やプログラムの勉強をしていて、頭のいい人と、そうじゃない僕の違いのようなものが分かった気がします。
あ、脳の作り云々というそもそもの部分は置いといてくださいね。
あくまで、学習を続けるということや、高いレベルの学習に到達できるかどうかという部分についてです。
その違いは、「わからないことがある」ことをどう思っているのかの違いなんじゃないかな?と思うのです。
「わからない」に対する感覚の違いが学習習慣に与える影響
学校の勉強をほぼしてこなかった僕にとって、何かを勉強するのが辛いと感じる時があります。
これを当たり前だと思ってもいました。
”「わからない」=辛い”
誰でもそうだと思っていました。
最近では、中学レベルの英単語をイマイチ習得できていない事実に、きついな・・・と思うことがあります。
その「きついな・・・」と思う感覚がイヤで学習から遠ざかることが過去には何度もあって、今も英語やプログラムの学習が、ちょっと嫌になってきています。
わからないって思いたくない、わかってない部分を知りたくない。
そんな気持ちがあるんです。
この気持ち、この感覚が僕を学習から遠ざけていたんじゃないか・・・と最近よく思います。
わからないことは悪い事という思い込み
僕の中では、わからないことが「悪い事」という式が成立している気がします。
「悪い事」ですから、そこには何か罰が待っているというところも、無意識で考えているのだと思うんです。
その罰が嫌だから勉強をする!というモチベーション要因になるかもしれませんが、僕の経験上、罰をモチベーションにすると長く続きません。
結果的にその罰が嫌で勉強そのものを避けるという選択肢を取るようにもなると思うんです。
というか、僕がそういう選択肢を取ってきたように思うんです。
勉強をしないってスタンスをとれば罰を受けることがない!という戦略ですね。
稚拙ですが、これが一定の効果があったため、勉強を遠ざけるようになったように思うんです。
点数が悪い時に与えるペナルティ
実は・・・というほどでもないのかもしれませんが、僕は小さなころはそこそこ頭が良かったようで、名門大学の幼稚舎に入れるレベルであり、公文式では小学校中学年当時に中学生の内容をやっていました。
ただ、その公文式で壁にぶつかった時、辞めました。
今でも辞める間際に公文式の教室で、問題が分からずに泣いたことを覚えています。
分からないままの自分がみじめでつらいし、これが出来ない自分はきっと母親をがっかりさせてしまい、捨てられることになるに違いないと本気で思っていたのです。
(一度そういう体験を味わったことが記憶に残っているので、常にそれに怯えていたのだと思います)
勉強でできないことがあると、母親をがっかりさせ、その果てに罰が待っている。
この罰が怖くて、勉強をするのが恐怖の対象へと徐々に変わっていきました。
わからない事への恐怖心をてなづける
勉強をするのは、わかる事を増やすという事と同時に、わからないことを見つける作業でもあるのだと思います。
むしろ、内容が高度になればなるほど、わからないことを見つける作業なんだなって思います。
その「わからない事」に対して自分が無意識に感じる感覚を、どう変えていくのか。
もし、「わからない事」に直面した時に、耐えがたいネガティブな感情の襲われるのなら、そのネガティブ感情を味わうのが嫌で「わからない」を避けるようになります。
勉強は「わからない事」の連続ですから、「わからない」を避けると勉強を続けることができませんので、「わからない」と思った時に感じるネガティブな感情をどう対処するのか。
そこがとても大切なんじゃないかな?って最近本当によく思います。
そこで、次のようなことを習慣づけしておいたほうがいいとも思っています。
「わからない」を褒める、認める
わからない事があれば「よし!課題を見つけたぞ」と自分を鼓舞する。
わからないことの解決に向けて動いたら、そんな自分を褒める。
わからないことがわからないままでも、大丈夫だと自分を励ます。
わからないことをクリアしたら、当然褒める。できて当たり前とか、他の人ならわかっているとか、自分を卑下しない。
そんなことを自分で自分に対してやってあげる事が大切なんだろうな・・・って思っています。
- わからないことは悪い事でもなんでもない。挑戦したから見つかったんだから良い事だ!
- 今はわからないとしても、何も悪くはない。分かる日はいずれ来る!
- トライしたことがすでにすごい。
こんな感じです。
もうあれです。
ティモンディって芸人のオレンジの人の感じです。
これを習慣化することは、勉強を習慣化することと同じか、もしかしたら、それ以上に大切なのかもしれない。
他の人の「わからない」に対する自分の反応も変わってきますからね。
だから・・・
もしかしたら、ここで書いていることは、頭のいい人には「当たり前だよね」って感じのことなのかもしれません。
でも、僕のように勉強が苦手だと思っている人、もしかしたら、日本人の多くが「わからないこと」や「間違い」は悪だと捉えているんじゃないかな?と思います。
ちょっと発言の言葉選びを間違えた人や、間違った行動をした人を見つけるとよってたかって叩くのは、そういう背景があるからだとも思います。
ひいては、新しいものを生み出すことが苦手で、既存の何かに改良することに長けているという国民性も、「わからない」ことへの反応の違いがそこにあるのかもしれません。
ただ、「わからない」に対して悪だとみなす価値観は、個人が新しいスキルや知識を身につけていくうえで障害になることは間違いがないと思います。
「わからない」に対する価値観を書き換えていくことも、勉強をしていくうえでとても大切なんじゃないかな?ってことを、自身の勉強を通して最近よく感じています。